1990年掲載 新聞記事紹介    6/16           


情熱の踊りに躍動する”星”

2年後のバルセロナ五輪、セビリア万博、EC統合を機に日本でも「スペイン熱」が次第に高まっている。情熱の国スペインの「血」をたぎらせるフラメンコ。体の中からその「血」に共鳴したのが阿藤さんだった。

 「大学3年の時でした。言葉を習うためにスペインに渡り、フラメンコを踊ってみたんです。そしたら自分のリズムにピタッと合ったんです。」 

 うまく説明はつかないけれど、フラメンコが私を呼び寄せたとしか思えない、という。

神奈川県の真ん中、厚木市に生まれ、小学校の教師をしていた父に小さい時から家で”芸事”を仕込まれた。とはいっても、童謡から浪花節まで、まるで毎日が学芸会だった。

 四歳の時である。幼稚園を借りて開いていたバレエ教室のチラシを見たら、無性に習いたくなった。モダンバレエだったが自分から、行きたい、と頼み込んだ。以後高校まで続いた。

 高校3年の時である。大学は英文科に進むつもりだった。が、体をこわして治ったら、頭の中に「スペイン」が浮かんだ。
「別に何のきっかけもなく、ほんとうにインスピレーションだったと思います。」



スペイン語学科に進んだ。在学中、語学研修のためスペインに渡った。その飛行機の中で、日本人のフラメンコギタリストに出会った。

 「そんなつもりは全然なかったのに、フッと「フラメンコを習うところありませんか」と聞いてしまったんです。」

もちろん、彼女が”成り行き的”にフラメンコを求めたのは、バレエを習っていたことと無縁ではない。が、紹介してもらった紹介してもらったマドリッドの人にフラメンコを習い、自分の中で眠っていた「血」が踊りだしたのを感じないではいられなかった。 

「バレエが現実離れした踊りであるのに対し、フラメンコの持つ生々しい現実感に魅かれてしまったんです。漠然とですが、その時に、一生これをやっていこうというような気持ちになりました。」フラメンコはもともとはジプシーの踊りである。さすらいの民・ジプシーが南スペインのアンダルシア地方に住み着き、その土地の民謡の影響などを受けて今日の形になった。ジプシーは迫害の中で、悲しみや苦しみ、愛と喜び、すべての感情を歌とギター、踊りに表していった。 

阿藤さんの感じた「現実感」とはフラメンコに織り込まれたジプシーの歴史だったのかもしれない。

2ヶ月マドリッドに滞在し、いったん帰国。基礎を学んで、大学を卒業した後、再びスペインに渡った。セビージャに居を構え、マヌエラ・カラスコ、マノロ・マリン、ミラグロス・メンヒバーレスらに師事し、ほぼ1年間、フラメンコを学んだ。

「とにかく日本に帰って仕事がしたかった。自分で稼いでまた来よう。そう思ったんです。」

帰国すると、スペインで知り合った小松原庸子さんに声をかけられ、関西公演に参加した。

25歳、フラメンコ・ダンサーとして歩きだしたのである。公演後は神戸にあるタブラオ「ロス・ヒターノス」に出演、毎日踊った。各地での公演、NHKにも出演した。あっという間に1年が過ぎ、1982年3月3度スペインに渡った。マドリッドでは1日10時間の練習を繰り返した。「どこまでできるか自分に挑戦してみたかった」翌年2月帰国し「ロス・ヒターノス」に出演していたが、この経営をギタリストの藤塚栄二氏が引き継ぐことになり、神戸を拠点とすることになった。



「東京で一緒にやっていた仲間に「関西へ行くと踊りがダメになる」なんて言われました。その後も知人に会うと「あら、踊りやめたらしいと聞いていたのに」とかね。

「でも私は落ち込まないで逆にシメシメと思ったんですよ。東京だと競争が激しいから自分の意思ではないところでもやらないといけない。それが神戸だと自分がなぜフラメンコをやりたかったのかを感じながらじっくり踊ることができるんです」

 なぜか子供の頃男に生まれればよかったと考えていた。無理だとわかった時、それなら一生男にできない仕事をしていこうと思った。小学校3年の教室で何になりたいかと聞かれ、バレエと音楽が一緒になったものをしたい、と考えた。 フラメンコは上半身で踊り、足は打楽器となる。自分の”予言”通りの道。日本では阿藤久子だが、

スペインでは「エストレージャ」(星)と呼ばれている。セビリアの老婆が「トゥリアーナ地区のマリアの名前」といってつけてくれた名だ。

 6月からは90年代を担うフラメンコ舞踊家ホアキン・ルイスとのジョイント公演が、全国5ヶ所で予定されている。

「生きる原動力のように、エネルギッシュなフラメンコの躍動感が、自分を通して一人でも多くの人に伝わればいいな、と思っています」